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大阪地方裁判所 昭和45年(わ)1812号 判決

主文

被告人両名はいずれも無罪。

理由

本件公訴事実は、

被告人泉海節一は、部落解放同盟(以下解同という)大阪府連合会組織部長兼解同矢田支部書記長、同戸田政義は、解同矢田支部長であつたものであるが、解同矢田支部では、昭和四四年三月に施行された大阪市教職員組合(以下市教組という)東南支部の役員選挙において、書記次長に立候補した木下浄が同市教組員に配布した立候補挨拶状の内容がいわゆる差別文書であるとして糾弾行動中のところ、被告人両名は他の解同矢田支部員らと共謀のうえ、右挨拶状を差別文書と認めない同市教組員らを集団で糾弾しようと企て、

(一)  ほか約一〇名の解同矢田支部員とともに、昭和四四年四月九日午前九時三〇分ころ、大阪市東住吉区矢田住道町八八六番地所在大阪市立矢田中学校に赴き、同校職員室において同校教諭岡野寛二、同金井清の両名に対し、矢田市民館に来るように執拗に要求したが、同人らが応じなかつたところ、同日午前一〇時五〇分ころ、被告人両名が同行していた解同矢田支部員に指示して、各二、三名がかりで右両教諭の両腕やバンドをつかみその脇を抱え、背中を押すなどして、同校正門まで連れ出し、駐車中の乗用車二台の後部座席に分乗させ、同人らの脱出を不能にして同区矢田矢田部町本通七丁目六番地矢田市民館まで連行したうえ、二階会議室に連れ込み、両名を正面の椅子に掛けさせて解同矢田支部員一〇数名とともにこれを取囲み、前記木下浄の挨拶状が差別文書であることを認め自己批判することなどを要求して追求したが、両教諭が黙して答えないので、机を叩きながら両教諭を差別者であるときめつけて怒鳴り散らし、口々に怒罵声を浴せて発言を迫つたものの、同人らが依然として黙して発言しないため、午後二時三〇分ころ場所を三階集会場に移し、そのころ被告人らの要請で参集した市教組関係者多数の面前で、解同矢田支部員数十名と共にいわゆる大衆糾弾集会を開き、両教諭を正面に据えて殆んど立たせたままで引続き前同様怒罵声を浴びせながら自己批判を要求して論難威迫を加え、

(二)  さらに糾弾対象教組員の代表的立場にあつた大阪市立加美中学校教諭玉石藤四郎を右会場に連行して糾弾することとし、被告人泉海において数名の解同矢田支部員とともに同日午後三時三〇分ころ、同区加美神明町五丁目一四九番地所在加美中学校に赴き、校長室で右玉石に対し、前記矢田市民館へ来るよう要求し、拒否している同人を午後四時ころ、解同矢田支部員四、五名らとともに、その両腕をかかえ、両足を持つて廊下まで担ぎ出したうえ、両側から腕を抱えて正門まで連行し、駐車中の乗用車後部座席に乗車させ、同人の脱出を不能にして右矢田市民館に連行し、前記岡野、金井を糾弾中の三階集会場に連れ込み、右両名の傍に起立させたうえ、右玉石を差別者であるときめつけて怒鳴り散らし、同人の胸倉を掴み殴りかかるような態度を示したり、その足もとの床を強く踏みつけて足を踏みつけるような気勢を示す等しながら口々に怒罵声を浴びせて、威迫を加え、

このようにして前記三名を引続き翌一〇日午前二時五〇分ころまでの間、同所において最盛時二〇〇名を超える解同矢田支部員、市教組員の面前で威迫を加えるなどし、もつて右岡野、金井、玉石の三名の自由を拘束して不法に監禁したものである。

というのである。

よつて、右公訴事実について検討するに、〈証拠〉を総合すれば、被告人らが岡野寛二、金井清を矢田中学校より矢田市民館まで連行した状況について、

1  昭和四四年四月九日午前九時過ころ、矢田市民館前に、被告人両名、川本竜子(副支部長)、河内稔(書記次長)、山本太一郎(執行委員)、佐藤輝美(同)中田順(同青年部長)、住田邦広(青年部書記長)、大谷修(執行委員、職業対策部長)、西岡洋右(会計)、山本里志(青年部員)ほか数名の約一三名が集まつた際、被告人戸田より前日の岡野、金井両名との交渉(後記)についての経過説明があり、その後被告人泉海が前記の参集者に対し「これからみんなで矢田中へ行つて岡野と金井にこれまで我々の集会に出てくると約束をしながら約束を破つて出てこない理由を聞こう、そして岡野と金井を市民館へ連れてきて集会を開こう」と呼びかけをしたうえ、他の全員がこれに賛同し、自動車四台に分乗して、午前九時三〇分ころ矢田中学校に赴いた。

2  被告人らは、職員室で、岡野、金井両名に対し、「これまでどうして我々との話し合いに出てこなかつたのか」「昨晩市民館へくると約束しながらどうして約束を守らないのか」など追求し、「ここでは話もできんから市民館へ行こう」などと要求したが、これに対し、岡野らは、糾弾というのはおかしい、対等平等の話でなければ応じられない、とか、窓口は玉石先生だから同人と交渉してもらいたい、との返答を繰り返し、市民館に行くことには応じなかった。当時職員室には市教組東南支部の役員二名、同中学の教諭数名が居合せた。このような応酬が約一時間弱続いたが、そうしているうちに、被告人泉海は岡野らに対し「市民館に行くと校長に言つてこい、よう言わんならわしが言つてきてやる」といつて校長室に行き、校長に対し岡野らを市民館に連れて行くことについて生徒に対する授業の関係もあつて了解を求め、その結果校長が職員室に行つて岡野らに市民館に行くことを説得することになり、被告人らは職員室から一旦出た。そこで校長が岡野らに対し市民館に行くことを説得し、その場に東南支部の役員や矢田中分会の役員も立会つて説得したが、両名はこれに応ぜず校長に対し「市民館へ行けと言うのは職務命令か」と問い返し、これに対し校長は「人間としてすすめている」旨答えたりなどして約二、三〇分したころである午前一〇時五〇分ころになつて、被告人らはしびれを切らして職員室に入り、被告人泉海が「このままではらちがあかん、市民館に連れて行こう」と宣言し、岡野に対しその同行を促すようにして腕をつかみ、同時に他の解同員二名がいすに腰をおろしていた岡野の両手を左右から引張つていすから立ち上らせ、さらに左右から脇をかかえ、背後から押すなどして約三〇メートル離れた校門まで連行し、そこに駐車中の自動車に、被告人泉海が「早よ入れ」といつて乗車を促し、同人を押して後部座席に乗車させ、同人の左側に同被告人も乗り込み矢田市民館に連行した。その間岡野は「そんなことをするな」と言つて連行を拒んだが、立ち上つてからは別に抵抗はせずあきらめたような恰好であつた。

3  他方、金井に対しては、被告人戸田外二名の解同員が洋服の肩のあたりを引張つたり、両腕を引張つて立ち上らせ、住田が座つていた椅子をけとばし、大谷、住田が腕を引張り、背後からズボンのベルトをつかんで押すなどして同人を校門まで連行し、そこに駐車中の自動車に、住田が「乗れ」と言つて同人の腰のあたりを押して乗車させ、被告人戸田、住田、大谷、中田らが乗り込み、矢田市民館に連行した。その間、金井は「乱暴はよせ」と抗議し、足を踏んばろうとしたが効果がなかつたりしたが、立ち上つてからはさしたる抵抗はせずなかばあきらめたような恰好であつた。また、岡野ら両名が自動車に乗つた状況は無理に押し込まれたという状態ではなくて、渋つているところを乗るように促がされやむなく乗り込んだという状態であつた。

以上の事実が認められる。なお、以上の連行の点に関する共謀について、検察官は、四月八日夜矢田市民館において被告人両名は川本、河内ら支部役員約八名と「明日強硬手段を講じてでも岡野らを集会に引張り出し追及する」ことを協議して決定したと主張し、これに副う山本太一郎の検察官に対する供述調書が存在するのであるが、これによると、四月八日の夜は、前日夜と同様糾弾集会が開かれる予定で矢田市民館二階の会議室に集つた旨供述しているけれども、「すいしん」中中学入会を祝う会の記事写、矢田市民館昭和四四年度事業実施計画書綴のうち四月八日関係部分写、「昭和四四年中学入学を祝う会」写真九葉によれば、四月八日午後七時から一〇時まで三階の集会場では中学入学を祝う会が開かれていたことが明らかであり、これには被告人戸田は出席しているが被告人泉海は出席していなかつたことが、右写真および被告人泉海の検察官に対する供述調書によつて窺われ、さらに山本太一郎の当時の病状、以上の点に関する他の証拠が存在しないことなどに照し、前記供述調書の内容はにわかに措信しがたく、他にこれを認めるに足る証拠はない。しかしながら、前記認定のように、四月九日朝矢田市民館の前において被告人泉海が「岡野らを市民館へ連れて来て集会を開こう」と呼びかけ、その場にいた者がこれに応じ、自動車に分乗して出かけているのであつて、右の呼びかけが、拒否すれば無理をしてでも連れて来るという意味であることは、当時の情況に徴し明らかであるが、中田順の検察官に対する昭和四四年九月一日付供述調書、住田邦広の検察官に対する供述調書、山本里志の検察官に対する供述調書によつても認められる。そして、四月九日矢田中学校において被告人らが他の参加した解同員と意思相通じて共謀したものであることは前記認定の事実によつても明らかである。

つぎに、矢田市民館における午前一一時ころから午後四時ころまでの情況について、

1  四月九日午前一一時ころから被告人らを含む約一三名の前記解同員らは、岡野らを矢田市民館二階第三会議室正面に座らせ、これに対面して座つて糾弾を始めた。

2  被告人戸田は、岡野らに対し、「お前ら、昨日約束して来ると言うたのに来よらん。何でけえへんかつたんや。」「三月一八日には差別文書であることを確認しておきながら、二四日にはなぜ来なかつたのか。」「差別文書でないというなら、みんなが納得できるように説明せよ。」と追及したが、岡野らは意思に反し連れて来られたことやこのような状態では話合いはできんという考えから黙つたままであつたので、さらに「なんで答えられんのやはつきりせんか。」「とにかくものを言え。」「差別者、自己批判せんのか、やらんのやつたら徹底的にやつたる。」などと申向け、被告人泉海は、岡野らに対し「三月一八日には差別文書であることを認めておきながら、なぜ今になつて認められないのか。」と言つたり、手拳で机を五、六回叩きながら「お前ら、うちの子供らを警察へ売渡した。」「矢田の子供で、若い女の子たちが自殺したことがある。それはお前らの責任だ。」などと大声でどなつて厳しく追及し、岡野に対しては「高校へ入学したが、英語の成績が悪くて留年となつた子供がおる、英語の教師のお前の責任だ。」「お前は野球をやつて遊んでばかりおり、子供の勉強は放つたらかしておつた。」と、金井に対しては「こいつは鑑別所では子供の監視ばかりやつとつたんや。」「部落のことを一番よく知つていながら徹底的にさぼりよつた男や。」「社会科の教師をしながら、部落のことをちつとも教えたことあれへん。」と、また、岡野らに対して「もの言え、差別者。あほんだら。」「差別文書やないということをなぜ言わんのか。」などと申し向けた。

3  こうするうちに午後一時ころになつて、被告人戸田は「岡野、お前は一八日に自己批判したやないか。そのときのテープを聞かしてやろう。」といつて録音テープをかけ、午後一時三〇分ころパンと牛乳が配られ昼食となり休憩状態に入つた。そこで金井はたばこを吸い便所に行つたが、これに対し被告人泉海は「生意気になんじやお前は。たばこなんか吸いやがつて」「お前どこへ行くんや、川本さんちよつと見とけ」と申し向け、川本において金井が便所に行くのを見ていた。そして、約三〇分休憩の後、午後二時ころになつて、このままやつていてもきりがつかんということから、以後多人数による糾弾にかえるということになり、人を集めたり、三階大集会場での会場準備のため約三〇分そのまま休憩を続けた。そのころ、岡野は便所に行こうとしたところ、西岡洋右から「こらどこに行くんや。」とどなられたが、独りで便所に行つて用を済ませた。

4  午後二時三〇分ころ、二階第三会議室から三階大集会場に移り、まず、被告人らから会場に参集して来た地元住民や解同員三〇名位に対して、それまでの経過説明があり、午後三時過ころ、被告人泉海は「こんなに黙つていては相手にできん、窓口やいうてる玉石を呼びに行こう」といつて、住田、中田、大谷、佐藤、西岡、山本里志とともに出かけて行つた。その後も糾弾は継続され、被告人戸田は「こいつらもの言わんように仕込まれとんのや。どこからもの言わんようにされているのかそのうちに白状さしたる。」「今まで、解同が差別やいうて差別でなかつたものはない。お前ら白切るんやつたらどこまでも糾弾する。」などといい、また、「前に認めておきながら、なぜ差別やないと言うてるんや。そのへんの理由をはつきりせえ。」と追求し、参集した人々からも口々に「もの言え」「先生なんで黙つているんや」「自己批判せえ」と声をかけたりした。そして、地元住民のうちから、田中こしげが「私は岡野先生にだまされた。この前、お前は部落解放のためしつかりがんばつてや言うときながら、こら何や、うそつき。」といつたり、吉岡が「先生はなぜ黙つてるねん、野球部で一生懸命やつたやないか。」と言つたりした。その間、解同側は岡野らに対し、質問者が立つているからという理由で「何じやお前ら、立て。」「差別者立たんか」とどなつたり、座つているいすをけるなどして起立させ、年輩の解同員から座りなさいといわれて座るという起立、着席を繰り返し命じ、午後二時三〇分ころから四時ころまでの間、起立、着席は半ばした。

以上の事実が認められる。

そして、つぎに、被告人泉海らが玉石藤四郎を加美中学校より矢田市民館まで連行した状況について、

四月九日午後三時三〇分ころ前記被告人泉海らは加美中学校に到着し、同校長室において、校長杉浦文男および岩根教頭に会い玉石先生に会わせてほしい旨申し入れ、同校長室で校長、教頭立会いのうえ、玉石藤四郎に会い、被告人泉海が同人に対し「今矢田市民館に岡野、金井両先生が見えているから君も来てほしい」といつたところ、玉石は「今すぐは困る」と述べ、ついで、木下あいさつ状が差別文書であるかないかについてやりとりを続けたが、話は平行線のままであつた。そうしているうち、被告人泉海が「そのことについては矢田市民館で話し合えばいいじやないか」と言つて立ちかけると、それをきつかけにして玉石の背後にいた二、三名の解同員が玉石の腕を両側から抱えあげるようにして立たせ、両腕をもつたまま室外まで連れ出し、うしろからも押すなどして約六〇メートルはなれた校門まで連れて行き、同所に駐車中の自動車に住田が同人をうしろから押して乗せ、矢田市民館まで連行した。

事実を認めることができる。

さらに、同日午後四時ころから翌一〇日午前二時五〇分ころまでの矢田市民館三階大集会場における集会の状況について、

1  被告人泉海らは同日午後四時ころ玉石を矢田市民館三階大集会場に連行したが、そのころ、同所では、市教組東南支部長橋本喜代治が、参集者に対し、市教組として岡野らに自己批判をするよう説得してきたが、同人らが聞き入れなかつた旨の経過報告および岡野らに自己批判を要求する旨の発言をしており、その終りころであり、当時同集会場には地元住民など約七、八〇名が集つていた。

2  被告人泉海は、玉石に対し「なぜ素直に来なかつたのか、説明しろ」と言つたが、玉石は「こういう状態で連れて来られたところで私はなにも言うことはありません」とだけ答えた。そこで同被告人は、参集者に対し、玉石を連行して来た経過を報告した後、「お前は一一人の親玉やということになつているが、その関係をいつぺん言うてみい」と言つたり、「こいつは矢田中学で暴力事件が起こつたときに涼しい顔して加美中学に逃げて行つた教師や」「この男は矢田中学の運動場の真ん中に榎があつて、生徒たちが運動するのに困つていて、それを父兄が切れと言うたのに、こいつはそれに反対したやつや」「小学校のとき、わしは行儀が悪いということで、教師から一八回も投げられた。そのためあほうになつたんや。それは教師の責任や。その教師の仲間がこいつや」など話したりした。そして、被告人らは玉石に対しても木下あいさつ状を差別文書と認めよと要求したが、玉石がほとんど発言しなかつたため、何回も「なんで黙つてるねん、しやべらんか」と言つた。それでも玉石は黙つていたので、被告人泉海は、同人に対し「窓口や言うてるけど、窓口とはいつたいどういうことや」「木下とそれから推せん人とお前との関係がどうなつてるんや、また組合とはどんな関係になつているんや、図を書いてやるからこれにいつぺん記入せえ」と言つて、黒板に丸を書き、チョークを玉石に握らせたが、これに応じなかつたので、同被告人はさらに「なんで書かんのや、これだけ言うてるのに分らんのか」と言つて玉石の胸あたりを押して黒板に押しつけた。それでも玉石が書かないでいると三、四名の解同員がつかみかかつたり殴りそうな恰好をしたが、その都度他の者がこれを制止した。すると、被告人泉海は、岡野に対し「そんなら岡野、書いてみい」と言つて同人にチョークを握らせたが、同人も書かなかつたところ、さらに同人に「なんで書かんのや、岡野、玉石が代表者や言うたやないか」と言つた。それでも岡野が書こうとしなかつたので、同被告人は金井に対しチョークを握らせたが、同人も書かなかつた。そして、被告人戸田は、玉石に対して「お前は部落の人が足を踏まれている痛さがわかるか、お前の足踏んだろうか」と言つて、玉石のすぐそばの床をどんと強く踏みつけ、玉石があわてて足を引いたところ、同被告人は「わしが足をあげたら自分の足を踏まれると思つたやろ、こいつは偏見をもつとる。部落のもんは悪いことすると思うとる。みてみい、わしはお前の足を踏んでへんのにお前さがつているやないか。お前は部落のもんこわいと思つているからそないするんじや」と大きな声でどなつた。岡野ら三名は以上の間被告人らの追及に対して、発言しなかつたため、参集した地元住民や解同員の中から岡野らに向けて「こらしやべれ」「なんで黙つとんのか」「耳あるのか、口あるのか」「差別者」などと罵声があびせられた。また被告人らは、岡野らに対して起立を命じ、同人らが年輩者の座りなさいとの言葉に従つて座つていると、被告人らは「何じや、お前ら座つて、立て」「こら差別者、立て」などとどなつて立たせ、同人らが立たずにいると、同人らのかけているいすをけつて起立させた、被告人泉海も玉石に対し「こら立たんかい、何しとるんじや」と言つて玉石の座つていたいすをけつた。こうして、岡野ら三名が、座れといわれても立つたままでいると、今度は「お前ら座れ言うているのに座らんのか」「親切に座れ言うてるのに座らんのか」などと言い、玉石が座らずにいた際、解同員の一人が「何じや、われ、座れ言うてるのに座らんのか」とどなつて手を振りあげ、同人に殴りかかろうとした。すると被告人泉海が「殴つたらあかんぞ、殴るのはおれだけや、おれは一万円札をおでこにはつたら検察庁公認や」といつて同人を制止した。このようにするうち、参集者として教師、地元住民の数がふえ、午後七時ころには約二五〇名位に達したが、そのうち一五〇名くらいは教師の傍聴者であつた。

3  午後七時三〇分ころ夕食がわりにパンと牛乳が出されて休憩に入つた。その際、岡野、玉石がそれぞれ便所に行つたが、解同員一、二名が同行し外に立つていた。そのころ、解同大阪府連副委員長西岡智および村越末男が市民館に立寄つた。約三〇分休憩の後集会は再開され、再開後、西岡が当日文部省審議官の部落視察に同行した状況報告をした後、岡野らに対し「解同は差別者に対しては徹底的に糾弾する、糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ、差別者は日本国中どこえ逃げても草の根をわけても探しだしてみせる。糾弾をうけてノイローゼになつたり、社会的に廃人になることもあるぞ、そう覚悟しとけ」など申向けて追求した。その後、被告人泉海が「こいつら、なんぼ言うても口をききやがらん。お前ら言うようにしてやろうか。お前らの嫁はんや子供呼んで来たら口開くやろ、こいつらかて人間やから、女房可愛いいで言いよる」とか「お前らに教師をさしておくのは市教委の責任だ、市教委呼んで来い。首切れということは言わんが、市教委がうまいこと処置するように要求する」と述べて、市教委職員を呼ぶこととし、さらに午後九時ころ木下浄を呼ぶことになり、被告人泉海ら数名が木下の家に行つたが不在のため帰り、同被告人がその旨を参集者に報告した。

4  午後九時四〇分ころ、大阪市教委同和教育指導室長森田長一郎が鶯原係長を伴つて集会の席に来た。そこで、被告人泉海は、森田に対し、約三〇分間にわたつて「木下あいさつ状は差別文書ではないか、市教委はどう思うか」「こいつらはものいわへんのだがどうするつもりか」「こういう教師は差別者や、自己批判もしよらん。こういう同和教育に対して意識の低い先生のいることは教育委員会の責任じや、どうするのか」などどなりながら、マイクで机をどんどん叩いたため、机はへこみ、マイクは壊れてしまつた。そこで、森田は、自分としては木下あいさつ状は差別文書と思つている旨答え、被告人らの了解を得て、岡野ら三名と二階会議室に行き話し合うことになつたが、岡野らは「ここでは云えません」というだけで、話合いは失敗し、約二〇分後に大集会場に戻つた。その後、被告人戸田は、岡野らに対し「お前らいつまでたつたら白状するのや、お前らは骨のある差別者や、ともかく徹底的にあしたでもあさつてでも続いて糾弾する」と言つた。

5  そのころ、岡野らの家族や友人、弁護士三名、日本共産党の関係者ら多数が矢田市民館に来て被告人らに岡野らの釈放を要求し、これに対し、被告人泉海が日本共産党大阪府委員会東住吉地区委員会の責任者戸田某と話合い、解放同盟と日本共産党の各大阪地区の責任者のトップ会談を開いて話し合つて解決しようと申込んだが、その後連絡をとつた結果日本共産党側がこれを拒否し、右の話しは流れてしまつた。また、そのころ、岡野、金井は便所に行つたが、前同様解同員一、二名がついて行つた。

6  午後一一時三〇分ころ、前記トップ会談のため解同大阪府連書記長上田卓三が来場し、会場で「差別者は反省するまで徹底的に糾弾する、差別者は早く自己批判して解放教育推進者になつてもらいたい」旨演説した。

7  四月一〇日午前一時ころ、解同大阪府連委員長岸上繁雄が、上田同様解同矢田支部からの連絡を受けて来場し、直ちに同支部の幹部から経過報告を聞いた後、会場で簡単なあいさつをすませ、続いて二階会議室において岡野らと話し合つたが、岡野らは「三人だけでは勝手な返事はできない、他の人とも相談せなあかん」と言うので話を打切り、その後弁護士三名、岡野らの家族と会つて話をしたが決裂した。そして、岸上委員長、上田書記長らを含む解同側幹部が二階会議室において今後の対策を検討した結果、本日の集会は一応これで終ることに決定し、午前二時ころ岸上委員長は大集会場において「今日はこれ以上やつてもきりがないから帰つてもらう。私が中に入つて話し合うよう努力します。しかし、糾弾は一時中止ではなく、支部・府連として継続して徹底的にやります」とあいさつし、上田書記長も「自己批判しない者に対しては、府連の立場で矢田支部とともに糾弾を続けて行く、こういう差別教師には首切りを市教委に要求する」とあいさつし、婦人部のたきだしによるにぎり飯が配られ、岡野ら三名もにぎり飯を一つづつ食べた後、午前二時五〇分ころ矢田市民館を出た。

以上の事実が認められる。

以上認定の各事実に照らすと、被告人らは岡野、金井、玉石の三名をそれぞれその意思に反し実力でもつて連行したものであり、矢田市民館においては、岡野、金井、玉石らは、帰らしてほしいとの明示の要求をしたことはないけれども、その任意の意思によつて自由に同所より退出することが困難な状況にあつたものであることは明らかである。そして、三階大集会場における集会が、岡野ら三名に対し、大声で激しい口調で追求し、その座つていたいすをけとばして立たせたり、暴力を振いかねない気勢を示すなど、非常に厳しい緊迫した状況下で行なわれたいわゆる大衆糾弾集会であつたものといわなければならない。

そうであるならば、被告人らの以上のような行為は、一応岡野ら三名に対する監禁罪(逮捕の点を含む)にあたるもののようにも考えられる。

しかしながら、他方、〈証拠〉総合すると、本件の背景をなす事情、本件発生に至るまでの経緯として、以下の事実を認めることができる。

一問題の発端

1  昭和四四年三月一三日大阪市教職員組合(以下市教組という)東南支部の役員選挙が行なわれたが、右役員選挙に際し、阪南中学教諭木下浄(東南支部阪南中学分会長)は、書記次長に立候補し、そのためのあいさつ状を作成して東南支部組合員に郵送した。右あいさつ状(以下木下あいさつ状という)ははがき一〇〇〇枚に印刷されたもので、その文面には、「組合員のみなさん①労働時間は守られていますか自宅研修のため午後四時頃に学校を出ることができますか。仕事においまくられて勤務時間外の仕事を押しつけられていませんか。進学のことや、同和のことなどで、どうしても遅くなることはあきらめなければならないのでしようか。またどうしてもやりたい仕事もやめなければならないのでしようか。②教育の正常化に名をかりたしめつけや無理がありませんか、越境・補習・同和など、どれをとりあげてもきわめて大事なことですが、それに名をかりた転勤・過員の問題や特設訪問や、研究会や、授業でのしめつけがみられて職場はますます苦しくなります。新指導要領についても同様です。『どんなよいことでも、お上(行政)からきめられたことはダメだ。自ら要求し自らかちとつたものが身になり肉になる』ことをひしひし思い知らされます。」などと記載されていた。

2  矢田中学校教諭岡野寛二(東南支部副支部長)、加美中学校教諭玉石藤四郎(東南支部加美中学分会長)ら一三名の組合員は、そのころ立候補者木下浄らに対する推せん状を作成して同支部組合員に郵送した。同推せん状(以下木下推せん状という)には「私たちは、組合に対していろいろな期待を持つています。最も民主的に運営されるのが組合でおると思つているのに、現実的には現場の組合員の要求がくみあげられなかつたり、組合員の要求にまでなつていないものを、ただよいことだからというだけの理由で、よいかどうか討議もされず、下部討議されないまま一方的に押しつけられたりして、現場ではよく混乱がおこります。こういう弱さを克服するため役員選挙を大切にしましよう。そういう意味から東南支部役員選挙で、私たちは自信をもつて、次の候補者を推せんします。支部長には安藤典男(現摂陽中学分会長)書記長には手嶋仁(元東南支部執行委員)書記次長には木下浄(現阪南中学分会長)。教育者として組合員としてすぐれた活動家です。誠実な現場の活動家です。組合員の立場で考え行動する活動家です。」とはがきに印刷して記載されていた。

3  矢田中学教諭金井清(東南支部矢田中学分会長)は、同月一一日ころ右木下あいさつ状、支部長立候補あいさつ状、書記長立候補あいさつ状の三通が一枚の用紙に連記されたものを矢田中学分会員に配布し、これとは別に同月一三日朝矢田中学副分会長山本和男は木下推せん状を同分会員に配布した。

4  被告人戸田政義は部落解放同盟大阪府連合会矢田支部(以下解同矢田支部という)の支部長、被告人泉海節一は同支部の書記長であつたが、解同矢田支部は昭和四四年三月一六日ころ木下あいさつ状および木下すいせん状を入手し、被告人戸田、河内稔(書記次長)、村越末男(執行委員)らが右両文書を検討した結果、それらが差別文書であると判定し、「差別者木下浄一派を糾弾する」と題する解同矢田支部名義の書面を作成した。右文書には、木下あいさつ状および木下推せん状を全文掲載したほか、「あいさつ状は部落差別を宣伝し、部落解放運動に反対し、教師の古い意識を同和教育に反対する基盤として結集することを訴えたのである。推せん状は『ただよいことだけというだけの理由で』として同和教育を中傷し、その実践に水をさそうというのである。あいさつ状と併せてよめばその意図は明らかだろう。木下氏は『進学のことや、同和のことでどうしても遅くなること、教育こん談会などで遅くなることはあきらめなければならないのでしようか』というのである。教師の苦しみ、困難さの原因が進学のことや同和のことにすりかえられているのである。具体的には部落解放運動に教師の苦しみの根源があるという恐るべき結論になつているのである。これは人民解放の斗いに水をさし、非難中傷し分裂させ、真の敵を不明にし、差別を温存助長させる、正に差別者以外の何者でもあるまい。われわれはこうした差別を許せない。この差別の思想と煽動を断固糾弾する」などと記載し、木下浄および推せん人一三名の教師に対する糾弾を開始することにした。そこで、まず木下浄と岡野寛二、山本和男の三名を呼んで事実確認をすることを決め、三月一七日河内稔は岡野に対し「役員改選の時のあいさつ状のことで話があるから明日(一八日をさす)木下、山本両先生と共に矢田の市民館に来て欲しい」旨電話で要請した。

二三月一八日以降四月八日までの経過

5  昭和四四年三月一八日午後四時三〇分ころから七時過ころまで大阪市東住吉区矢田矢田部町本通七丁目六番地矢田市民館二階第三会議室において、木下浄、岡野寛二、山本和男の三教諭と解同矢田支部長戸田政義、同副支部長山田政信、同川本竜子、同書記次長河内稔、同執行委員村越末男(大阪部落解放研究所事務局長)、同佐藤輝美、同中田順、西岡洋右らとの間で事実確認集会が開かれ、席上、解同矢田支部側から前記「差別者木下浄一派を糾弾する」と題する書面が三教諭に配布され、被告人戸田、村越などが木下あいさつ状が差別文書であることを指摘して、はじめのうちは穏かに、次第にきびしい調子となつてその差別性を糾弾し、右あいさつ状が差別文書であることを認めるように要求した。その結果木下ら三名は木下あいさつ状が差別文書であること認め、木下ら三名は他の推せん人全員とともに三月二四日午後五時から矢田市民館で解同の糾弾を受けること、その際自己批判書を作成し、決意表明を行なうこと、木下あいさつ状をできる限り回収することを約束するに至つた。

6  三月二二日矢田中学校においては、昼一二時ころ同中学分会委員会が職員室で、午後三時から分会委員会と同和委員会が合同で校長室で開かれ、委員全員が学習のため三月二四日の午後五時からの糾弾集会に出席することを確認したが、同日午後三時ころから午後一一時ころまでの間木下および推せん人のうち水田、山下、手嶋の三名を除く全員が三年生の職員室で協議しその結果、木下あいさつ状は差別文書とは思われない、木下は差別するような人ではない、三月二四日には矢田市民館に行つてそのことを説明しよう、山本が自己批判することはとめないなどが意見の大勢を占めた。

7  三月二四日朝木下浄は市教組大村委員長から本部に来てほしいとの要望で、本部に赴いて大村委員長と話しをし、市教組の「部落解放同盟矢田支部の糾弾についての市教組執行委員会の責任と方針」と題する書面(当時は未だ執行部の案で正式決定はその後になされた)を見せられた。右書面は、東南支部役員選挙において配布された差別文書についての解同矢田支部の糾弾は全面的に正しいものであるとした上、問題点として次のような点を指摘していた。(1)同和教育・越境入学根絶については部落解放運動の成果として、府、市教委が推進せざるを得なくなつた運動である。したがつて、市教組としては、自主的により積極的な運動をおこすことによつて行政機関のおかしがちな官僚的なやり方を克服しなければならぬ。それ以外に職場の「しめつけ」や「より苦しくなる」ことを防ぐ道はない。木下君らは、この点の理解が根本的に誤つている。(2)「職場の素朴な要求や声をとり上げたまでであつて、何がわるいのか」という考え方がかなりみられる。この点では、労働条件と教育実践(同和教育をふくむ)の関係という問題についての根本的再検討が木下君らにとつて必要である。民主主義の確立を旗印とした日教組の運動の歴史の中で「進学や同和や教育こんだん会」などをふくめて本当に子どもたちに必要なことは、たとえ時間がかかろうが、主体的にとりくむというのが、すでに根本姿勢となつている。そのような実践があればこそ教組の労働条件改善の要求は迫力と説得力をもつものである。組合員の個々にある「素朴な要求や声」だからといつて、教職員組合の運動が、もしも個々の組合員がただ「楽になればよい」という考え方で組織されるならば、教組はたちまち国民的支持を失うであろう。(3)「糾弾というのは厳しすぎる。かわいそうだ」というみかたがある。そこからすぐ生れるのは解放同盟は「ひどすぎる」とか「教組は組合員を守れ」という考え方である。われわれは組合内部にでてくるであろうこのような考え方の克服こそが、最も困難であるだけに、最も重要な課題であると思う。何故なればここでこそ教育労働者の部落解放運動への参加の現実の姿勢が問われるのだからである。解放同盟が糾弾しているのは、部落差別に歴史的終止符をうつことは、国民的課題だといわれているのに、教育労働者は何を考え何をしようとしているのかということなのである。教育の分野での解放運動がすすむかどうかは、解放同盟の指導というよりも、教育労働者自身の姿勢にかかわる。教育の中から「部落差別」を追放できないでいる教育労働者自身こそが「かわいそう」であり「なさけない」のである、組合としてはこの糾弾を組織的な反省ととりくみ強化のキッカケとして受けとめてゆきたい。(4)市教組としての運動評価について、木下君らにどうしても誤りを是正してほしいのは次の点である。第一は補習全廃は多年にわたる中学校分会と支部・本部の運動の成果であること。第二に越境根絶にともなう転勤と過員は現在とりくみつつある斗いの内容である。一歩誤れば組織不信と分裂をひきおこし直轄人事をひきおこしかねないこの問題について、全組合員の討論を基礎に一定の方針で対処している。文書にみられる発想がまきちらされるならば大きな混乱が生れる。などである。これを見た木下は、市教組本部が組合員としての立場を守るという姿勢でないこと、そうであるならば二四日も結論は一八日と変らないだろう。そもそも問題の発端は教職員組合内部の役員選挙に関するもので組合内部の問題である。木下一派というものはないなどの理由で同日の糾弾集会には出席しないことを意思表示した。岡野は、三月一八日以降文書の回収、決意表明書の作成などを続けていたが、三月二四日矢田中学分会の会議中であつた午後四時ころ木下が当日の集会に出席しないことを知るにいたり、自分も不参加の意思表示をした。岡野が不参加に踏み切つたのは木下が出席しないということが最大の理由であるが、その他に木下あいさつ状は差別文書と思えない、自由な話し合いならよいが糾弾という形式では困るということを理由としてあげた。他の推せん人は、ほとんど当日矢田駅に集つたが、木下が出席しないことを知つて欠席を決め、これを玉石藤四郎が解同矢田支部に連絡した。

8  三月二四日糾弾集会は矢田市民館三階大集会場において開かれ、教組側約一五〇名位、解同側約二〇名位が出席したが、関係人としては山本和男のみが自己批判書を配布して説明をし、糾弾を受けた。そこで、同集会に出席していた市教組の幹部は、解同側に対し、木下あいさつ状は市教組東南支部の役員選挙に関する書面であるから、市教組としても責任があるので欠席した関係者に対して組合として解同との話し合いに応ずるよう説得することを約束し、四月二日午後三時から関係者を含め教組と解同との話し合い持つことを申入れ、解同側もこれに同意した。

9  三月二四日以降市教組は本部、支部の執行委員が手分けして関係者の家庭を訪問するなどして四月二日の集会に出席するよう説得したり、三月二七日市教組本部書記局において大村委員長、矢代執行委員、橋本執行委員が木下、岡野、玉石の三名に対し四月二日の集会に出席方を説得したりした。そして、四月二日までに関係者全員が集まる場をもつため、三月三一日以和貴荘において、市教組本部および支部の執行委員と木下あいさつ状の関係者が集つて話し合つたが、四月二日に出席する旨を表明したのは森、水田、清水の三名で、その他の者は、木下あいさつ状は差別文書であるとは思われない。木下先生が差別する筈がないということで終始し、四月二日の集会への出席を拒否した。矢田中学分会も岡野に対し四月二日の集会に出席することを要請することを決め、三月二五日、三一日、四月二日に出席方を要請したが同人はこれを拒否した。金井清は、三月三一日の以和貴荘での右集会の後同所で開かれた矢田中学拡大分会委員会の席上、文書には問題がある、四月二日の集会には自分は出席する、今晩自宅を訪れ岡野に対し四月二日出席するよう説得すると約束したが、四月二日には分会員を集めて当日の集会には出席しないと意思表示するにいたつた。しかし、同分会は、分会長である金井に対し分会責任者として出席すべきであると決議して、同人の出席方を要請したので、やむなく同人はこれに従うことにした。

10  四月二日午後三時過から午後一〇時四五分ころまで、矢田市民館三階大集会場において、前記教組と解同との話し合いの集会が開かれ、解同側から被告人両名、西岡智(解同府連副委員長)、河内、村越ら約三〇名、教組側から組合員約一五〇名が出席したが、関係者としては森弘、清水義則の両名が出席し、水田秀起は欠席したが自己批判書を提出した。そして、清水、森の両名が自己批判し、両名に対する糾弾が行なわれた後、午後五時過から午後一〇時四五分ころまでの間、木下あいさつ状を矢田中学分会員に配布した金井清が新らしく糾弾の対象とされ、被告人両名は同人に対して、木下あいさつ状をどう考えるか、何故に配布したか、分会長として責任を感じているかについて追及したうえ、右文書が差別文書であることを認め自己批判するよう要求したが、金井は、右文書の表現が不十分であることは認めるが差別文書ではないと主張した。そうするうちに市教組は、解同に対し、再度前同様関係者に対し説得をしたい、そして四月七日に再び同様の話し合いの集会を持つことを申し入れ、その同意を得た。かくして、市教組は、四月四日すでに自己批判をした者を除き、新たに金井を加えた関係者一一名に対し四月七日の集会への出席方を要請したが、全員がこれを拒否した。

11  四月七日矢田小学校講堂で開かれた集会で、市教組は、解同に対し、木下らに対する説得はこれ以上不可能であることを伝えたため、解同においては、今後独自の糾弾活動を行うこととした。

12  四月八日午前八時三〇分ころ、被告人戸田は、川本竜子(解同矢田支部副支部長)とともに矢田中学に赴き、同日午前一一時ころまで校長室において、市教組東南支部役員らの立会のもとに、岡野、金井両名に会い、昨日までは市教組との話会いで集会をもつたが、今後は解同独自でやつて行く旨宣言したうえ、今迄の集会になぜ出席しなかつたなど質問をしたが、これに対し、岡野は、糾弾ということでは納得できない、対等平等な話し合いなら応ずる、関係者は一一人だから一一人対一一人にしてもらいたい、私は窓口になつていないので皆と相談したい旨答えた。そこで、被告人戸田はこれを了承し、話し合いの日時、場所を皆と相談して設定してくること、その結果がどうなつても当日中に矢田市民館に直接来て口頭で連絡してもらいたいことを要望し、岡野もこれを受け入れた。そこで、岡野は関係者と連絡をとりその四名と相談の結果、玉石が窓口であるのに岡野が相手方と交渉して取りきめをしてはこまる、対等の話合いならまず糾弾文書を徹回してからでないと応じられない、ということをきめ、岡野は同日午後一一時時ころ電話で矢田市館の被告人戸田に対し「この話は玉石が窓口であるので、玉石と連絡をとつてほしい」と返事し、これに対し被告人戸田が「とにかく直接市民館に来て話をしたらどうか」と言つたところ、岡野は「からだの調子も悪いので今日は行けません」と答えて電話を一方的に切つた。

以上である。

そこで、まず、木下あいさつ状および推せん状の差別性が、本件紛争の核心をなしているものであることは、以上認定の事実からも明らかであるので、その点について検討するに、ある文書が差別文書であるかどうかは、差別文書の定義をどのように解するかによつて異なり、その定義づけについては種々の考え方があり得ると考えられるので、ここにその厳格な定義づけをすることは、本件の判断に必ずしも不可欠ではないと考えられるのでさし控え、これをしばらくおいて前記文書の実質的な内容について考察することとする。もとより、文書は、書いた人の主観的意図と客観的にその文書がどのように受けとられるかということは必ずしも一致せず、その主観的意図も文書の客観的内容を理解するうえで無視できないものであるが、それにもまして、客観的にその文書がどのように受けとられるかということが重要であることは多言を用しないところである。そして、その文書が客観的にどのように受けとられるかは、その文書が読まれる時点の社会的条件によつて決定されるものであると思料される。そこで、本件文書についてそれらの社会的条件について案ずるに、〈証拠〉によると、本件当時矢田地区には、矢田中学校と矢田小学校があり、両者はいずれも校区内に同和地区を含む、いわゆる同和推進校と称せられる学校であるが、同時にそれらは教育困難校と呼ばれるものであり、児童、生徒が学校に来ない、学習意欲に乏しい、教師の指導に従わない、非行が多いなどの現象が特徴的であつた。それらの現象は一つには、親の生活すなわち、就職しようとしても部落民であるということから就職できないという就職の機会均等が行なわれていないことから、極めて貧困な家庭が多いということが子供の教育環境をきわめて低劣なものとしていることによるものであることを看過することができない。例えば、親が子供らに少年労働をさせている。子守り、漁業に従事したり、わら細工の手伝いをしたりで、学校どころでないという空気が以上のような現象を招来する原因となつているのである。したがつて、児童、生徒は低学力におかれ、高校への進学率を例にとつても、大阪市下における中学校生徒の高校への進学率は平均八〇パーセントであるのに、矢田中学校の同和地区の生徒のその進学率は三〇数パーセントに過ぎないという状況におかれている。また、越境入学は、昭和四三年六月現在において、矢田中学校について、本来同中学校に在籍すべき者一一三九名中四一八名が校区外の中学校に入つており、矢田小学校について、本来同小学校に在籍すべき者三一〇八名中九四一名が校区外の小学校に入つており、その越境率は、大阪市下にあつて最も高率となつている。以上のような状況の下に、昭和四〇年に同和対策審議会答申が出され、昭和四一年秋には大阪市教育委員会において、昭和四二年春には大阪府教育委員会において、それぞれ同和教育基本方針を定め、同和教育を積極的に推進する姿勢を示し、教師の意識の高揚をはかり、他方、行政的な措置として特別就学奨励費、教育特別行動費などの予算化をはかつたり、同和推進校に対する教員の加配、校舎の新営、整備拡充などが講ぜられてきた。そして昭和四三年には越境入学が差別に根ざすものであり、違法なもので廃止されるべきことが決定され、昭和四四年度は、その解消実施の最初の年度とされた。

他方、部落に対する差別意識は、就職、結婚、教育などの面をとおし社会意識として存在し、教師のうちにあつても、部落の児童、生徒は勉強をしない、思うように指導できず、そのために地域の人々と話をし、子供達と話をし、徹底的にひざつき合わした話合いがなければ同和教育は進んで行かないことから、同和教育は苦しい、難儀だ、三年間辛抱すれば同和推進校から抜け出せるという被害者意識を持つものも多く、一般に同和推進校に勤めることを忌避する意識が強いという現状であつた。そして、越境入学を解消するとしても、その結果教師の過員が生じ、したがつて転勤を余儀なくされ、右のとおり同和推進校に転勤を好まない意識が強いことから、転勤に反撥する動きが見られた、以上の事実を認めることができる。

そこで、以上のような、従来の部落差別の実態、矢田地区における教育の現状、大阪市における越境入学とこれに対する対策の現状に照らすと、本件文書は、書いた人の主観的意図は教師の労働条件の改善ということにあつたとしても、同和教育および越境入学解消にともなう過員、転勤の問題と教師の労働条件とを対置させ、それらが共に重要であるとするならば格別、教師の労働条件を悪化させている原因が専ら同和教育および過員、転勤の問題にあると読みとれる内容になつていることが明らかであるから、結局部落解放に中心的な役割を果す同和教育の推進を阻害するものであり、部落解放、差別廃止(越境入学の解消)という流れに逆行する内容、すなわち結果的に差別を助長することにつながる内容を包含するものであると認めざるを得ない。(これを、差別的な内容をもつ文書と表現することも一つの表現方法である。)

しかして、差別というものに対する法的救済には一定の限界があり、その範囲が狭く、多くの場合泣きね入りとなつている現状に照らすと、差別に対する糾弾ということも、その手段、方法が相当と認められる程度をこえないものである限り、社会的に認められて然るべきものと考える。そして、その糾弾の手段、方法が如何なる程度であれば相当と認めうるかは、抽象的画一的に決せられるべきではなく、当該糾弾の対象となる差別の内容、程度、差別にいたつた経緯、差別者が糾弾する者と交渉してきた経緯、差別者の態度など諸般の事情に徴して決定せられるべきものであると思料される。

これを本件についてみると、本件は前示のような、いわゆる差別的な内容をもつ文書の差別性に対する糾弾の一環として行なわれたものであることは明らかである。

そして、すでに認定したような背景事情および事件発生の経緯に照らすと、本件被害者とされる岡野らの行動は、一旦約束したこと、すなわち、岡野は、三月一八日に木下あいさつ状が差別文書であることを認めて、自己批判書を作成のうえ、同月二四日の糾弾集会に出席することを約束、さらに、四月八日に一一人対一一人で話合う準備をすることを木下ら関係者と協議のうえ同日中に矢田市民館に赴いて直接連絡することを約束しながら、言を構えてこれを破つたもので、双方の信頼関係を裏切る背信行為と目されても止むを得ないものがある。また、岡野らはいずれも、教職員組合の役員、同僚あるいは学校長からも解同側と話合うことを再三にわたつて説得されており、その話合いの方法も同人数による対等の話合いをすることを解同側が認めているのであるから、同人らの社会的地位から考えると、本件文書が差別文書でないというなら話合いの場に出席して正正堂堂と自己の考え方、主張を明らかにするべきであるのに誠心誠意これをなしたと認める形跡は窺われず、本件集会においても強制連行などを理由にほとんど黙否に終始しているのであつて、これが集会を結果的に極めて長時間のものとする原因となつていることは否めず、結果として岡野らの疲労性衰弱症を招来する一因をなしているものと認められる。

ついで、すでに認定した岡野らの連行の事実によると、被告人らは、同人らに対し殴る蹴るなどの暴行を加えておらず、その実力行使は、引つ張つたり押したりしていすから立たせる、歩かせる、自動車に乗せるというもので、比較的軽微なものというべく短時間に終つている。そして岡野らは、校長や同僚の勧奨、学内における生徒に対する影響などの点からも一緒に行かざるを得ないような状況下にあり、また、岡野らは、同僚あるいは警察当局に救いを求めるということも可能であるのにこれらの措置をとることもなかつたことからすると、岡野らの連行に対する拒否の意思表示、抵抗の程度も同人らが供述するほど客観的に大きいものであつたとは認められない。

さらに、すでに認定したような四月九日における集会の状況に照らすと、岡野らに対する矢田市民館における行動の自由の束縛の程度は、岡野らにおいて事実上自由な退去が困難な状況にあつたというものであり、集会には同僚である教師が半数以上参加しており、市教委の同和指導室長も出席していること、岡野らが退去したい旨の意思表示をしたことは一度もなかつたこと、相当な休憩時間があり、その間パン、牛乳が昼食、夕食がわりとして配られ、三名とも飲食しており、文句を言われてはいるものの、煙草をすい、便所に行つて用を足しており、集会の終りには婦人部の炊出しによるにぎり飯が出され、三名ともこれを食べていること、集会中糾弾の外に各種の経過報告やあいさつが行なわれ、また岡野らと仲介者との話合いが別室において行なわれるなどかなりの時間がそのために費やされ、糾弾そのものの時間はそれ程長時間とは言えないこと、金井において外部と電話をしているような事実も窺われることが認められる。そして、糾弾の状況としては極めて緊迫した厳しいものであり、野次、罵声が浴せられたことも認められるのであるが、これは岡野らがほとんど黙否していることに対する怒り、地域住民の差別への怒りが噴出したもので、従来部落民が受けてきた差別による苦痛の深さ大きさを想像するとき、本件文書がすでに述べたようにいわゆる差別的な内容を含むものである以上或程度むを得ないものと考えられる。

以上に検討したような本件の背景となる事情、本件発生にいたるまでの経緯、被告人らの行為の動機、目的、態様など諸般の事情に照らすと、被告人らの行為には、いささか行き過ぎでないかと認められる点がないではなく、今後の自重に期待するものがあるが、被告人らの本件行為は、未だ可罰的評価に値するものとは認め難く、違法性を阻却し罪とならないものと解するのが相当である。

よつて、刑事訴訟法三三六条前段により、被告人らに対し無罪の言渡しをする。

(松井薫 山中紀行 山崎宏)

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